2013年12月8日日曜日

Newest Issue of Surfer's Journal Japan 12/10発売!

【最新号 ザ・サーファーズ・ジャーナル日本語版Volume3 No.5】

2013/10/10発売号 English Edition Volume 22 No.4

【L I N E R N O T E S / 解説 By スコット・ヒューレット】

lン2僕らはきわめて小所帯。事務所のフにロントには何人かの実務担当、そにして奥ではひと握りの編集者が頑張ってにいる。そんな僕らは、とにかくジャーナルにを守るために一生懸命突っ走る。やるべにきことをやり、さらに改善すべきことを改に善するのだ。に 時間が大切だ。だから、雑誌作りの現に場からすこし距離をおき、長時間の大量にのリサーチを要する取材に取り組むのは、にあまり分別ある行動とはいえない。それには未熟で妄にもうそうに想型の人間がする挑戦だ。とにころが、マネージング・エディターのカイにル・デヌーチョは、それをおこない成果をにあげてしまった。サーフ探索の変にへんぼうに貌につにいて彼が手がけけた「ZOOMING IN」にには、何十時間にも及ぶインタビュー資料にが必要だった。そのうえ、公開可能なエンにトリーポイントも必要だった。彼は、僕らにが廊下で耳にしただけの事柄を大皿にに盛って見せてくれた。次に彼は、その素材にを覆う論旨と構造を考えなければならなにかった。その結果、重要な事柄を提案すにる文章ができあがった。
lン1カイルが安定剤の服用で製薬会社の利に益に貢献している間、僕は彼のやり方をに観察していた。。最初の頃の彼は、サーフ!サーフ! で、どんちゃん騒ぎ状態だった。仕事の前と後に、それも2週間毎日だ。やがて彼はストールした。書くというプロセスを知らない人にとっては先送りと言うのかもしれない。しかし彼にとってそれは、自分のエネルギーの集中を待っていただけのことだった。完全なシステムの構造をチェックしていたのだ。それから彼はバルブを開いた。6日6晩、ノートから溢れだす言葉と叩かれるキーがつくり出す混沌のなかへと飛びこんだ。はたして彼はその混沌から脱することができたのだろうか? 結果は? なんと! この期に及んで自信喪失が彼を襲った。準備稿を読んでみた。意味がなかった。彼はあまりにも現象の核心に近づきすぎたのだ。この段階で、彼はランチを注文することさえできないくらい混乱の極みに立ち、憔悴しきっていた。その状態の彼に編集するなんてことは到底無理だった。しかし、彼はやり遂げなければならない。そんなものだ。最終的には、それを蹴っ飛ばし、僕のところによこしたんだけどね。
 僕は寛大な気持ちを心がけながらソファに横になった。5,000字読んでおもむろに眼鏡を外した。僕はその原稿を賞賛すべきか呪うべきか判断に困ってしまった。それは、宮廷音楽家サリエリがはじめてモーツァルトの音楽を聴いたときの気分に似ていたのかもしれない。これが彼のはじめての原稿だったなら、10本書いた時点ではいったいどうなっているのだろう?空恐ろしいことを予測してみた。読者諸兄に、僕のその感想の是非を訊ねてみたい?
 同様のアップカマーといえば、カイルの昔からの旅仲間ニック・ファラーゴは、魅力的なウルグアイのブレークダウンを贈り届けてくれた。それはウルグアイの政情以上の問題だ。あの国は南米の南端にあり、そこは南半球の波列車の風下にあたる。おなじ大陸のチリやペルーが、オーストラリアからの冬のうねりの恩恵を授かる時、ウルグアイは地元の風波に頼るしか術がない。これが主たる理由で、サーフトラベラーたちからは無視され続けてきた。視点を変えれば、それは魅力的な状況なのかもしれない。サイコロを転がし、ここで最終的に波を当てれば、ほかの目的地を目指した君のような3,000人とは違ったバージョンを楽しめるということだ。多くのほかの場所がそうだったように、ウルグアイは、「‘50年代の南カリフォルニアのようだ」という意見をよく耳にする。そう表現する人たちは、きっと清潔で人口が少なく、先進国の便利さがあり、サーファーが少ない海岸線のことを指して言っているのだろう。少しまえには、ニュージーランドから南オーストラリア、南アフリカから南フランスなどもそう言われた時期がある。所しょせん詮、グリンゴ(外国人)の訪問者たちが、自国の土地のノスタルジックな思いを反映させて言っていることだ。もちろん、この主張自体はひじょうに偏屈なものだとは思う。ファラーゴが発見したウルグアイはそんなモノではない。しかし君の興味が、オフショアが吹くビーチの裏でグリルされるステーキと、探検可能なさまざまなテリトリーにあるのなら、ぜひこの記事は読んでほしい。
 継続する僕らの「ゆっくりペースで発行」することへの探求を、今回もサポートしてくれてありがとう。僕らの頭が正しい方向に向かわなければ(ま、22年やっているから、あり得ないと思うけど)、2ヶ月後にまたお会いしましょう。
ー スコット・ヒューレット

【From the Editor / 編集部より】

ss2今号のオリジナルコンテンツは、江本陸(以後、リク)による日本のニーボーダーのストーリーだ。1/4のインド人(正確にはインドの少数民族パーシー)の血を受け継ぐリクは、DNAなのか、少数民族やサードワールドに興味をもっており、日本の少数民族、アイヌの友人がいたりして、私を驚かす。私が彼と初めて会ったのは、1980年、私の仕事場(彼は文中で雑誌『波乗り生活』と書いている)でだった。そのとき、彼は、前年に旅したスリランカの魅力を熱く語り、私のココロをいたく揺り動かし、1981年11月号の『サーフィンライフ』誌上で「サンボの冒険、セイロン島探検記」という巻頭記事となった。以来、リクとはつかず離れずのつき合いだが、日本人にはない彼の不思議な感性に私はいつも魅せられていた。 リクの1/4のルーツであるインドの少数民族パーシーは、リク曰く「1375年にペルシャからインドにやってきたゾロアスター教徒、パーシー族で、人種としてはインド・ヨーロッパ語族」だと言う。パーシーは、ペルシャを意味するところからそう呼ばれており、インドではひじょうに人口が少ない民族だが、政治的経済的に特別の地位を得ている。それは、インドがイギリス統治の時代、東インド会社などでパーシー族を重用した経緯によるものだ。彼
らのなかにはインドの巨大財閥、タタ自動車などを傘下に収めるタタ・グループなどがあり、リクの祖父もまたタタ貿易のブレーンのひとりとして働き、のちに独立して異邦人の街、神戸で貿易商を始め(大正時代)、淡路島出身の祖母と結婚し成功を収めた。江本姓は祖母の苗字で、祖父の苗字はシュロフという。 現在、リクは自分のルーツを探す旅を計画中で、ボンベイ(現在のムンバイ)からペルシャ(現在のイラン)までバイクで旅をしようと考えている。そのときには、ボンベイでゾロアスター教の洗礼を受けてパーシー族のルスタ厶ジー・シュロフとして故郷に帰還するつもりだと、次の冒険を熱く語る。リクのサードワールドへの冒険旅行は続く…。    ̶森下茂男
ss何年かまえ、タイガーとハワイのノースショアで仕事をした時のこと。タイガーが「ハワイにはこんなにいい波がたくさんあるから、ハワイアンとして、波はみんなとシェアしなければいけない」と言っていた。その言葉は僕にすごく響いたものだ。ジェリー・ロペスは今号の記事のなかで、タイガーから“マナ”を感じると書いている。僕は鎌倉人でハワイアンじゃないので、どこまでそれを理解しているかわからないけど、タイガーの“マナ”は自分なりにたっぷりと感じた。このタイガーの“マナ”は、彼のこのシェアする気持ちからきているのではないだろうか。彼とよく七里ケ浜にあった焼き鳥屋「ファッキン・ビーバー」に行ったとき、シェアすることについて話してくれた。いいものは自分だけで大事にするんじゃなくて、シェアすることが大事だと。波だけでなく、彼はハワイの文化をシェアしてくれた。カヌーやチャントについてもオープンに教えてくれた。タイガーが鎌倉の七里ガ浜に引っ越してきた年(1997年)は、僕の記憶のなかで、いちばんコンスタントに波があった年だったと思う。タイガーは少し彼の“マナ”を使って、ハワイの波を日本にシェアしてくれたのかもしれない。それから、僕も自分が入っているポイントの波は、みんなでシェアしようという気持ちが強くなった。 
̶ジョージ・カックル
あれは2001年の秋のこと。僕らは、ロングボード・サーフィンにおけるカリフォルニアン・スタイルとハワイアン・スタイルの相違をテーマにしたビデオ作品『ウィングナットのアート・オブ・ロングボーディング3』のロケでノースショアを訪れていた。カリフォルニアからは主演のウィングナットをはじめ、当時もはや神格化されつつあったジョエル・チューダーや、それにこれが初めてのハワイだというアレックス・ノーストなどが参加。対するハワイ勢もボンガ・パーキンス、ディノ・ミランダのベテラン勢に加え、ケコア・ウエムラなどの若手が参加していたが、そのハワイ勢のまとめ役としてこのロケに参加してくれたのがタイガー・エスペリだった。前年、数年間の鎌倉での長期逗留からオアフに戻っていたタイガーは、僕らが到着した日の朝から約2週間後の最終日までロケ隊に帯同。陰に日向に、細やかな心遣いでいろいろと僕らを助けてくれたのだった。 それはこのロケの最後の日の出来事だった。その朝、いつものようにビーチでカメラの横に坐っていた僕に近づいてきたタイガーがこう訊ねてきた。「撮影も今日で最後だね。今夜は何か予定があるのかい?」。「ああ、ウィングナットが打ち上げしようって、タウンの”デュークス”を予約したらしいよ」と僕。しばし沈黙したタイガーは、大きくため息をつくとこう言った。「なんでわざわざそんな場所に行って、高いお金を払ってパーティするんだい?」。いつもの優しい表情とは違う、少し険しい表情で彼はこう続けた。「海でスタートさせたことは、海でフィニッシュさせなければ、海に申し訳ないだろ!」。 
 その夜、僕らの打ち上げパーティは、食材や飲み物を集めるために一日中奔走してくれたタイガーが、お得意のフィリピン料理を振る舞ってくれたほか、ロケに参加したさまざまな人々がそれぞれのオリジナル料理を持ち寄り、ビーチに面した庭で賑やかにおこなわれた。それはそれは温かいパーティだった。予約を急にキャンセルしなければならず、最初は不満そうだったウィングナットもやがてうちとけ、楽しそうにみんなと語らっている姿が、とりわけ印象的だった。
 あれ以来、ロケで海に行くと、あのタイガーの言葉が、あの少し怒った表情とともにフッとアタマをよぎることがある。「海でスタートさせたことは、海でフィニッシュさせなければ、海に申し訳ないだろ!」。 
̶井澤聡朗
クレメント“タイガー”エスペリについて
 1946年生まれ。ワイメア渓谷で彼の祖父母と幼少時代を過ごし、そこでダイビングや漁を習う。タイガーというミドルネームは、10才のときにあまりにアグレッシブにサーフする彼を評してワイキキのビーチボーイたちからそう呼ばれるようになった。彼の祖父はワイメア渓谷に眠る古代ハワイアンの遺骨を管理した最後の人で、タイガーはその方法を受け継いでいたが、ホノルル市とナショナル・オーデュボン・ソサエティがその管理をおこなうことになった。また、彼はワイメアベイの最初のライフガードのひとりで、ハワイの伝統文化の専門家、そしてカフナ(祈祷師)でもあった。1975年にはすでにホクレア号の建造に熟練工として参加。タイガーの妹(シェリー・ディアズ)によれば、母親の死後、長男であったタイガーは家族の結束を計るための霊的なリーダーとなり、毎年32名の家族を一堂に集めては、なにものにも頼らずに生きていくための漁や狩猟、大地やすべてのものを愛し、リスペクトする教えを説くキャンプをおこなった。ホクレアのクルーとビルダーによってポリネシアン・ボヤージング・ソサエティが1995年に発足。そのメンバーとタイガーは、ミッション「タ
ヒチ・エルダーズ」の遂行のために、1997年から2000年まで日本に滞在。その目的は、ハワイへ入植した日本人仏教徒とハワイアンとの関係を調査するためだった。ふたつの文化にさまざまな共通性があることを発見したタイガーは、ジャパン・ハワイアン・ボヤージング・ソサエティを発足。2005年7月22日没、彼の遺灰はハワイ島のプウコホラ・カワイハエにて散骨された。 ̶李リョウ
※参考資料は、starbulletin.comより。タイガーのパートナー、カレン・エスペリに
よる記述から要約させていただきました。


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